法華寺は武将と関係が深い寺である。
1582年3月、織田信長の息子信忠が武田氏を滅ぼすため諏訪にやってきた。
追い詰められた武田勝頼、信勝が自害すると織田信長自らも諏訪に入り、
武田氏が諏訪信仰を崇拝していたため本宮を焼き討ちにしてしまった。
そしてすぐ近くにある法華寺を拠点とした。
そこで論功行賞(功績に応じて見返りを与えること)が行われ、
多くの武将が集まったが、明智光秀が織田信長の怒りに触れてしまい、
一説によると欄干に頭を押しつけられる等、愚弄された。
そして同じ年の6月、本能寺の変によって織田信長は殺されており、
この時の恨みが本能寺の変の引き金の一つとなったのではないかと言われている。
そしてもう一人有名な武将とも関係があり、赤穂浪士で有名な吉良上野介義央の孫、
義周は法華寺に埋葬されている。
義周は赤穂浪士討ち入りに遭遇してしまうが、この時に傷を受けてしまった。
そして幕府から武士としての働きがよくなかった時のお咎めである仕方不届を受けてしまい
当時流刑地であった諏訪に流されてしまった。
しかしその三年後、義周は病死してしまい、断絶してしまい引き取る人が
誰も居なかった義周は法華寺に引き取られ、埋葬された。
現在の法華寺の本堂等は1999年に放火されてしまったため建て替えられたものであるが、山門は昔からのものである。
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